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マントうさぎ

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マントうさぎの随想「枯れ色」

旅・沢木耕太郎

 今何をしたいかと問われたら、旅をしたいと答える。かつて身も心も元気だったころ、恵まれた一時期があった。父が亡くなって、私に少しのお金を残してくれた。私は、大勢の家族を抱えていたが半ば強引にツアーの旅を選んで、いくつかの外国へ出かけていった。ロンドン、パリ、韓国、香港、上海、北京、西安、モスクワ、サンクトペテルブルグ…。

 初めての海外旅行になったのは、思いがけない誘いで、中国雲南省へ少数民族の村を訪ねるものだった。天安門事件の翌年である。今から思うとかなり危ない旅であった。しかしその旅はその後の旅の火種となった。ツアーでの旅が精一杯であったが、私はいつも一人で参加した。自由行動を多く採っていた当時の旅で、数々の自分だけの旅を作ることができたと思っている。


 今はもう元気とは言い難い老人二人で共住みの日々を送っている。遊ぶ金も底をついている。たぶん海外旅行はもう行かない。でももし誰か私を旅に連れ出してくれる者があったら、誰にでもついて行く。最後の旅はイタリア、シチリア島へ行きたい。映画「ゴットファーザー」の舞台。マフィアのドンを演じたマーロン・ブランド、息子役のアルパチーノが好きだ。シチリア地方を舞台に、繰り広げられる凄惨なシーンも目に浮かぶが、家族の愛と悲劇を描いたこの名作は私の映画ベストテンに入る。


 沢木耕太郎の小説『春に散る』が、2015年4月、朝日新聞朝刊で連載が始まり、16年8月に完結した。新聞連載小説を初めから終わりまで欠かさず読んだのは、いつの頃、誰の小説だっただろう。読み始めてすぐに続きを楽しみにしながら読み切ったのは久しぶりだった。私はこのたおやかで、強い芯の通った小説に感銘を受けて、沢木耕太郎の男前の写真と共に沢木耕太郎を思い出した。

 すぐに本棚に一冊だけあるはずの著書『深夜特急』を探した。1994年文庫の初版が出たときに、これを買った。一人で旅をする魅力を期待して読み始めたが、すぐに私はやめてしまった。あまりにも沢木耕太郎はかっこよすぎて嫉妬した。まして女の私が、若くても、すべてを捨てても叶うはずのない旅がそこにあり、私は密かに絶望した。その『深夜特急』は見つからなかった。

 今更のように沢木耕太郎に再び会いたいという想いがつのり、神保町の三省堂へ出かけて行った。

文庫のコーナーに『深夜特急』はあった。全6巻「香港・マカオ」、「マレー半島・シンガポール」、「インド・ネパール」、「シルクロード」、「トルコ・ギリシャ・地中海」、「南ヨーロッパ・ロンドン」。巻末には、それぞれ、山口文憲・高倉健・此経啓助・今福龍太・高田宏・井上陽水との対談が収録されて、1994年から2017年まで60刷りにおよぶ版をかさねる、贅沢な本としてそこにあった。さらに「深夜特急ノート」とサブタイトルをつけ、別冊『旅する力』が2011年に出ていた。

 すぐに7冊の文庫本を抱えて帰ってきた。まず『旅する力』を読み、それに導かれるように、1巻から6巻を一気に読んだ。そしてそれは私にとって、とても懐かしい思いを抱かせた。香港以外はもちろん私の行ったことのない世界だったにもかかわらず。知らない土地での不安や、行動の迷い、思いがけない場所への誘い、人との出会い。一人で歩かなければなかったであろう数々のシーンがつながっているような気がした。ほんの僅かな私のささやかな旅が「インドのデリーからイギリスのロンドンまで乗合バスで行く」『深夜特急』を旅したかに思えた。

 

 かつて26歳だった沢木さんが旅をして、『深夜特急』を書き始めるのに10年、全6巻が文庫で揃うまで15年の歳月がかかっていると『旅する力』にもある。すでに70歳を迎えている沢木さんは、私がすっかり忘れていた間にも、ルポルタージュライターとして、ノンフィクション作家として、小説家として、写真家として、世界中を旅し、ラジオ番組のDJ、などなどの仕事をして、その時々に数々の賞を受けていた。


 私は『深夜特急』から新聞小説『春に散る』まで飛び越えて再び沢木耕太郎に巡り合った。旅とは何かと問いかけつつ、また生きるとは何かを問いかけ続けてきたのであろう、沢木耕太郎という人の冒険と叙情に満ちた歳月が、小説『春に散る』に完結しようとしているように私には思える。『春に散る』という題名とともに、やっぱり沢木耕太郎はかっこよすぎる。そして美しい。私は今、老境を密かに沢木耕太郎に救われている。これからは『深夜特急』とともに生きればいいと、また旅の続きを読み始める。



by manto-usagi | 2018-03-09 20:04