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マントうさぎ

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マントうさぎの随想「枯れ色」

 出かける 出会う 愛でる ④_e0303636_11541677.jpgもう二十年ももっと前、小さな花をつけた鉢植えのバラを買って、何年か咲かせたのを土におろしたのが、このバラは四季咲きで、いつも一つ二つ花を咲かせて、あざやかなピンク色がいつまでも変わらない。この秋、暑かった夏を越えて少したよりなくなった古い株に一つだけ花を咲かせていたのを、備前焼の壺にさしてみた。壺は先月の備前陶芸祭りで手に入れたもの。
 六十年ぐらい前の中学二年生のとき、ある日二階へ上がる階段の踊り場で、後ろから近づいてきたS子が「あんた私と友達になる自信ある」と低い声できいてきた。私はそのときどう返事をしたのかを覚えていないが、私たちは友達になった。一緒に同じ高校に進みS子の自分からの発言は、踊り場の一度きりで、生来のはしゃぎ癖をもつ私の近くに静かにいて、いつも何くれとなく私を助けてくれていたと思う。高校二年のときK子が岡山から転校してきた。背が高く、きりっとした目をして気が強そうで賢そうだった。私はすぐにこの転校生に近づいていって友達になった。私たちは気が合ってクラスの中でいつもにぎやかでいて、なんの用があったのか教員室に出入りして「あんたらいつも楽しそうじゃね」と国語の峰先生からいわれたりした。彼女は数学が得意で私に因数分解を易しく解く方法を教えてくれたりしたが、私は数字の計算がいまも苦手である。
 高校を出て、後に私たちはそれぞれ結婚して、私は郷里を離れ、二人とはお互いに年賀状は欠かさないが、それ以上ではない関係の40年ほどの歳月が流れた。
 S子とK子はクラスメイトというくらいで、それほど親しくなかったが、郷里に住んだ二人は、ある時期に、お互いの姉弟がお互いの近くに住むという縁があって親しくなり、そこで、むかしそれぞれとは親しかった私を話題にすることになり、いつのまにか私たち3人という関係ができあがっていた。
 三人三様の人生であったが、二人は仕事をもち堅実な家庭を築いて、今はそのまま広島に住んで穏やかな老婦人らしく日々を過ごしている。
 私の人生は高校時代からずっとただはしゃぎ通しで、十年ぐらい前、芸能プロダクションに所属していて、浅草の舞台に出ることになった。年賀状に書いたのだと思う。二人でその舞台を見に来ることになった。以来、その浅草の夜をきっかけに、私たちは改めて三人の友達になった。
 それから毎年一度は、二三日の旅を計画して実行している。京都へ芝居を見に行ったり、岩国の清流を遡り鮎の宿に泊まったりした。そろそろ今年の旅をという時期になって、S子が家の片付けを始めたから旅行は来春にといってきた。私たちはもう、いつも片付けるということを考えて過ごす年寄りであり、来年の旅はできるかどうかもわからない。
 秋、岡山の伊部で備前焼の陶芸祭りのあった十月、私は広島へ二人に会いにいった。お祭りを訪ねたり、広島城近くの美術館にいったりして、お天気に恵まれた秋の数日を過ごした。
 広島駅へ送ってくれて来年を約して別れた。家に帰ればそれぞれお互いに、自分の老いや、孫に至るまでの家族に憂いがないわけでは決してない。しかし年に一度三人で過ごす数日の幸せは、永い年月の、語り尽くせない時間に彩られた、得難い時だといつも思う。来年も旅がつづけられるだろうか。バラの花はまた咲いてくれるだろうか。
# by manto-usagi | 2015-11-20 00:00
 出かける 出会う 愛でる ③_e0303636_1053226.jpg母が亡くなって実家を片付けるとき、未整理のまま、押入れや、箪笥や、古い行李の底に散らばっていた布類を弟たちが捨てるというので、段ボールいっぱいに詰めて送ってもらった。ほどいたままの布団や、古着、着物の新しい裁ち残った端布れなどで、それらはすべて木綿と絹である。洗ってシワをのばすと、使い込まれた綿と生糸の手触りと、褪せているが古色蒼然とした布きれが柔らかくよみがえった。私は箪笥の何段かを始末してそこへそれらを並べて入れた。そして以来ときどき針を持って工夫しながら取り合わせて形のあるものにしてみようと遊んでいる。
 父の少年時代のものらしいほどきかけの紺絣の着物の切れ端と、母の幼いころに使っていたと母が話していた、赤い鹿子絞りのもうぼろぼろになっていた帯揚げで、一枚の敷物を作って、そこへ備前焼の壺を置いた。

 備前焼は、岡山県の瀬戸内海に添って走る赤穂線の伊部という駅に訪ねる。歴史の初まりは伊部焼きとして中世の昔から焼かれ、今も備前焼として古窯として続いている。
 その赤穂線を一駅岡山駅の方へ戻ると片上という駅がある。そこを児島湾に注ぐ吉井川が流れている。昔吉井川の上流に鉱山があり片上弯に積み荷を運ぶ鉄道があり、沿線の町も栄えた時代があったが、その鉄道もずっと以前に廃線になった。今は田畑が多く広がる地になったが吉井川の豊かな流れと共に人々の暮らしがある。その上流の村で父は生まれ、今は生家の建物ばかりが残ることになったが、両親の墓所は今もそこにある。

 出かける 出会う 愛でる ③_e0303636_1115548.jpg私たちは姉妹は母の三回忌の墓参りを済ませた後、ずっと昔両親と訪ねたこともある備前焼の町を訪ねてみることにした。古い記憶に残るそこは煙突のある焼き物の郷といった印象であったが、現在は今風にそれぞれが店舗を構え、街並みは石畳で散策するのにも便利な街の作りに変わっている。私たちが訪ねた日は平日で、あいにくの雨であったので、人通りもほとんどなくひっそりとしていた。何軒かの店を見てまわって、一軒の大きな店構えの窯元の引き戸を開けて入った。奥の帳場に座っている老人が三代目の当代で息子さん二人が伝統を継ぎ、備前焼きの作家としても活躍するに至っているという話しを後で聞くことになった。様々に焼かれた備前焼を見ていると、静かに若者が近づいて「今ちょうど窯出しをしたところです。よかったら見て下さい」と言う。思いがけない誘いに幸運を喜びながら、若者に導かれて店から裏庭に続く三和土を通って案内された。目の前に大きな丸い窯が築かれ、家の入り口より大きな奥に暗い穴が開いていた。辺りに様々な陶器が取り出されて並べられ、まだ奥にもたくさん積まれているのが見えた。入り口に置かれた床几のような台の上に丸い壺が一つ置かれている。思わず「持ってもいいですか」と尋ね持たせてもらった。壺は見かけより軽く両手のひらをひらくとすっぽりと収まり仄かにまだ暖かさがあった。どうしてもこれをほしいと思った。「譲っていただけるものですか」と訪ねると若者は「これは兄の作品ですのでちょっと聞いてきます」しばらく奥へ行っていたが「あまり良いできではないのですがよろしいそうです」と言ってくれた。値段を聞くと「おまけして一万円ほどでいかがでしょうか」と言ってくれ、私はこの壺を買った。若者は「どこかご予定があれば時間を下さい。1時間ほど水を入れて漏らないかどうかみたいのです」と言う。私は少しぐらい漏ってもこの壺がほしいが、店の人は多分売ってはくれないだろうとそんな気がした。若者が水を汲んできて壺に注いだ。私たちは裏庭に並べられた焼き物や、積みあげられるように置かれている陶器の破片を見たり、広い店先に戻りまた陶器を眺めた。その間に背広姿の数人が老人と話しをしているのを、仕入れのお客さんですと若者から聞いたり、店の歴史の話しを聞いたりすることになって、すぐに1時間がたった。
 水を張った壺の下の床几には染み一つなく乾いていて若者も「だいじょうぶでした」とうれしそうに言った。

 丁寧に箱に入った壺は二三日して宅急便で私の元へ届いた。
 私の手元にある陶器の中で一番高価でもあったこの壺は、色、形、様々に使える勝手のよさに、何もかもが気に入っているが、一時間待って下さいと言って、焼き上がったばかりの壺に水を注いだ若者の心に出会ったことは死ぬまで忘れないだろうと思う。
出かける 出会う 愛でる ③_e0303636_11173149.jpg
# by manto-usagi | 2015-09-06 00:00
出かける 出会う 愛でる ②_e0303636_16175649.jpg 今から25年ぐらい前になる。正確には中国の天安門事件があった1989年の翌年のことだったので、あれから26年がたった。中国雲南省へ行く10人ほどの旅に誘われて仲間に加えてもらった。雲南省省都昆明を拠点に、25種族が暮らすという少数民族のいくつかの村を訪ね歩いた。日本語の堪能な中国の青年と、中国語を話し、少数民族の言葉をあやつる一種族の人という通訳二人に付き添われて、十日ほどの旅を終えた。帰路、最終日に飛行機が飛ばなくなるという、突発的な難問に遭遇した。昆明では一日雨が降り続き、飛行場に一機しかないプロペラ機が整備不能になった。私たちはそこで通訳の二人と別れ、言葉のほとんど通じない運転手二人と小さなバスで山越えをするという現地の人々の判断に身をゆだねるしか方法がなかった。
 帰国後に旅のことで何編かの詩を書いている。その中の「夜明けまで」の書き出しの数行。霧降る闇/蛾山への道を/元江の音を聞きながら/マイクロバスで行った。/バスを動かす人/窓の曇りをぬぐう人は/飛ぶはずだった飛行機の距離を/町までの 朝へ夜をくぐって私たちを運ぶ/…雲南省昆明から香港を経由する一番近い帰路の中継地を広東省の広州までとっての山越えであった。狭い道幅の片側は千尋の谷底を河が流れ、片側は切り立った山地であった。10人がやっと乗れる小さな古いバスで運転手は陽気であった。降り続く雨の中私たちはときどき草の中に入って用をたしたり、エンジントラブルを起こした車をみんなで押したりした。真っ暗である。怖いとも命が惜しいとも思わなかった。夜が明けて大都会の広州へ着いたとき、雨の上がった青空を私たちが乗る予定だった飛行機が飛び立っていくのをバスの窓から見た。そして私たちは広州での一日を授かることになった。二人の運転手はそのまま来た道を笑って昆明まで引き返していった。この旅で出会った、一所懸命に暮らすさまざまな人々に、この国の大きさを感じたことが私の思い出になっている。
 「広州民間工芸館」は博物館でもあり、土産物を売る場所でもあったと思う。奥まった薄暗い一室に紛れ込み、汚れた大きなガラスの陳列棚の隅に、積みあげられるように未整理のままの数々の物が置かれている中に、私はにわとりの形をした水滴らしき物を見つけた。ひっそりとした室内に白い上着を着た婦人が座っているのに「これは譲ってはもらえないのか」と尋ねた。その水滴を取り出して奥へ行きしばらくして出てきた婦人は「四千円ほどですが」と言った。私は財布に残っていた日本のお金でそれを買った。そのころ一ヶ月分の生活費をそれに充てることができる人は恵まれているというようなことを旅で聞いたように思うが、私には高い買い物ではなかった。婦人は加えてこれは「清朝道光のもの」とたどたどしく教えてくれた。無造作に紙に包まれて渡された物を、握りしめて帰国した。
 水滴の片面にエナメルの朱書きがあって1638とある。道光帝は1821年からの人なので、この数字は発掘品の年号だろうか。底面に発掘品の海外持ち出しを許可した物にあるという蝋が押されていた。いずれにしてもわからないがおよそ400年くらい前の物かも知れないと思ってみる。誰かがこの水滴に水を入れ墨を擦り文字を書いたのだ。……見えるところに置いてあって、時々手にとってみる。上の穴からは取り出せない石のような物があって、振るとからからと鈴のような音を出す。水滴であることは間違いないが私は一度も水を入れていない。400年前の塊が砂になって溶けてしまうと困る。

 にわとりの水滴に添えてみたのは、少数民族が集う朝の市場で、一人の老人の前にうずたかく盛られていた小さな小刀で、赤い鞘が5センチ、刃が4センチとかわいいもの。中国のお金元を少数民族のお金に換えて貰って買った値段は10円だった。以来私はいつも持ち歩いている。旅先でリンゴを買ってもこの小刀でリンゴを割ることも、皮をむくこともできる変わらない切れ味を保っている。つかう度に市場で小刀だけを商っていた老人の佇まいと、様々な民族の鮮やかな色の中の喧噪を思い出さずにはいられない。出かける 出会う 愛でる ②_e0303636_16191856.jpg
# by manto-usagi | 2015-04-20 05:05