もう二十年ももっと前、小さな花をつけた鉢植えのバラを買って、何年か咲かせたのを土におろしたのが、このバラは四季咲きで、いつも一つ二つ花を咲かせて、あざやかなピンク色がいつまでも変わらない。この秋、暑かった夏を越えて少したよりなくなった古い株に一つだけ花を咲かせていたのを、備前焼の壺にさしてみた。壺は先月の備前陶芸祭りで手に入れたもの。六十年ぐらい前の中学二年生のとき、ある日二階へ上がる階段の踊り場で、後ろから近づいてきたS子が「あんた私と友達になる自信ある」と低い声できいてきた。私はそのときどう返事をしたのかを覚えていないが、私たちは友達になった。一緒に同じ高校に進みS子の自分からの発言は、踊り場の一度きりで、生来のはしゃぎ癖をもつ私の近くに静かにいて、いつも何くれとなく私を助けてくれていたと思う。高校二年のときK子が岡山から転校してきた。背が高く、きりっとした目をして気が強そうで賢そうだった。私はすぐにこの転校生に近づいていって友達になった。私たちは気が合ってクラスの中でいつもにぎやかでいて、なんの用があったのか教員室に出入りして「あんたらいつも楽しそうじゃね」と国語の峰先生からいわれたりした。彼女は数学が得意で私に因数分解を易しく解く方法を教えてくれたりしたが、私は数字の計算がいまも苦手である。
高校を出て、後に私たちはそれぞれ結婚して、私は郷里を離れ、二人とはお互いに年賀状は欠かさないが、それ以上ではない関係の40年ほどの歳月が流れた。
S子とK子はクラスメイトというくらいで、それほど親しくなかったが、郷里に住んだ二人は、ある時期に、お互いの姉弟がお互いの近くに住むという縁があって親しくなり、そこで、むかしそれぞれとは親しかった私を話題にすることになり、いつのまにか私たち3人という関係ができあがっていた。
三人三様の人生であったが、二人は仕事をもち堅実な家庭を築いて、今はそのまま広島に住んで穏やかな老婦人らしく日々を過ごしている。
私の人生は高校時代からずっとただはしゃぎ通しで、十年ぐらい前、芸能プロダクションに所属していて、浅草の舞台に出ることになった。年賀状に書いたのだと思う。二人でその舞台を見に来ることになった。以来、その浅草の夜をきっかけに、私たちは改めて三人の友達になった。
それから毎年一度は、二三日の旅を計画して実行している。京都へ芝居を見に行ったり、岩国の清流を遡り鮎の宿に泊まったりした。そろそろ今年の旅をという時期になって、S子が家の片付けを始めたから旅行は来春にといってきた。私たちはもう、いつも片付けるということを考えて過ごす年寄りであり、来年の旅はできるかどうかもわからない。
秋、岡山の伊部で備前焼の陶芸祭りのあった十月、私は広島へ二人に会いにいった。お祭りを訪ねたり、広島城近くの美術館にいったりして、お天気に恵まれた秋の数日を過ごした。
広島駅へ送ってくれて来年を約して別れた。家に帰ればそれぞれお互いに、自分の老いや、孫に至るまでの家族に憂いがないわけでは決してない。しかし年に一度三人で過ごす数日の幸せは、永い年月の、語り尽くせない時間に彩られた、得難い時だといつも思う。来年も旅がつづけられるだろうか。バラの花はまた咲いてくれるだろうか。
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by manto-usagi
| 2015-11-20 00:00






