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マントうさぎ

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マントうさぎの随想「枯れ色」

出かける 出会う 愛でる ①_e0303636_1343963.jpg 鎌倉はまだお正月の気分。四番乗り場からの大塔宮行きのバスは、鎌倉駅東口を出て鶴岡八幡宮の前を右に折れて、狭い道路の人波をかわし、対向のバスとのみごとなすれ違いを運転しながら、岐れ道、天神前と三停留所ばかりを止まり、30分ばかりでゆっくりと終点の鎌倉宮の前に着いた。
 後醍醐天皇の悲運の皇子を祀ったという鎌倉宮は静かな佇まいで、十段ほどの狭い石段を上がって境内へ入り、さらに石段を進むと、小さな拝殿とその奥の木立の中に本殿がある。
 お賽銭箱の前に背の高い男女の若い二人連れがいて、ていねいに三拝をして、ゆっくりと型どおりの順序でお参りをしているのにちょっと感心をして、その後ろから私もそれに習って柏手を打って手を合わせて拝んだ。別に拝むことがなかったので、年寄りとして軽くなれますようにと、思いつきを神様にお願いした。小豆色の袴をはいた巫女さんが通りかかったのに二人が近寄って「昨年春ここで結婚式を挙げさせてもらいました」と挨拶をしていたので「ほう」とちょっとびっくりした。
 鎌倉宮の境内では毎月第二日曜日に骨董市が開かれている。今日はその日に当たりお天気が良いので出かけてきた。インターネットネットにあった「全国骨董市案内」には、四十店ばかりが出るとあったが、いかにも骨董日和の穏やかな新年の境内であったが、今日は十店足らずがまばらにあるばかりだ。骨董市というより古物市ふうの店が多かったがゆっくりとていねいに見て歩く。けれど手にとって見たい物はなく、石段を道路の方へ帰りかけたが、出口の店のシートの上に置かれた猫だか虎だかわからない白い焼き物と目が会ったような気がして、石段をひきかえした。店の人が「今日は東京ビッグサイトで骨董市が開かれているので皆そっちへ行っています」と言う。ビッグサイトの大きな広がりの骨董市を想像しただけでめまいがしそうだった。若くはない。社寺の境内での骨董市が似合っていて好きである。シートに屈んで手にとって裏を返すと、○と□にかすかに文字のあるハンコが押されている。「たぶん輸出用に作られた置物だと思います」と言う店の人が負けてくれて千円におつりをくれた。ハンドバッグに入れて、この猫だか虎だかわからない置物は今日の記念で私のものになった。
 父の子ども時代の古着をほどいて作った、絣の布巾をたたんで、その上に載せて私の机の上に置いた。
片手で持ち上げると手の中に収まる大きさで、よく作られた白に藍の手書きの陶器である。左右が同じではなく傾いて座る。その傾き加減が日増しに顔の表情を増してきた。思わず持ち上げると冷たくて少し重くて手の中で温かい。布巾に戻して「おまえ海を渡って行かなくてよかったよ」と見つめる。けれど猫だか虎だかわからないこれは遠くを見ている。たぶん外国のどこかで、ペーパーウエイトかなんかに使われているかもしれない数知れない仲間があるとしても、顔は皆一様ではないはず。「おまえは可愛い」と愛でている。
# by manto-usagi | 2015-02-15 13:24
 
「藤娘」_e0303636_19102652.jpg

何もかもが夢のことのようだと思うことがある。
 ちかごろ、妹夫婦が、びわ湖畔の大津へ新しい家を建てて越していったのは思いがけないことであった。10歳年下の妹とは互いにそれぞれ郷里を離れたが、家庭をもってから、ぐうぜん同じ県内の近くの町で暮らすことになり、30年ぐらいが経っている。今になって、とつぜんのかたちで起こったこの新しいできごとは、私にとって心躍るうれしさであった。歴史に彩られた京都やびわ湖周辺の地が、急に近づくことにもなって、今までたずねたことのある地のどこにも、興味のあるものがたくさん残されているようで、妹を訪ねるという口実より、もっと大きな探訪の広がりが、想像できるだけでもうれしいこととなった。
 さっそく大津へでかけていった。妹の新居を訪問して、まず手始めに妹を誘って大津絵をさがしにいった。松尾芭蕉の句に「大津絵の筆のはじめは何仏」という句があり、これは大津絵が俳句に詠まれた最初と伝えられ、正岡子規にいたるまで大津絵の俳句は多くみつけることができる。大津絵は、はじめ土俗信仰などの仏画として始まり、徳川末期のキリシタン禁制の宗門改めが熾烈を極めた頃に、人々の間で一つの免罪符として信仰の助けになったという。色鮮やかに戯画的に描かれる独特な画風のこの絵は、あとには伊藤若沖、丸山応挙なども描き、庶民の間で、はやり唄にまで唄われた。やがて歌舞伎の舞台で、歌や、踊りにもなり、東西を結ぶ街道筋でも、明治に入るころまではもてはやされ流行したということだ。その大津絵を今も四代目、五代目の絵師として継いでいる家がある。その店を訪ねた。大きな屋敷の土蔵のような空間に古い絵や彫刻やあらゆる生活雑器などに大津絵は写されて、新旧混在して展示されていた。大津絵の墨、丹(朱)、胡粉(しろ)、黄土の色が同じ方向からうごめいてくるようだったり、しんと静まったりしてせまってきた。なんとなくしだいにそっと手を合わせたくなってくるような感覚におそわれた。しばらく時を忘れた。大津絵は中でも墨と丹で描かれたさまざまな鬼の滑稽な絵が魅力の中心である。妹は「鬼の寒念仏」を買うことにした。この鬼には角が二本あり一本の先が折れまがって描かれている。角は人の「我」をあらわしたもので、その角を少し折ることで幾分の救いを求めるのだという。妹はいまだ捨てきれない我執を戒めるお守りにしょうと神妙にカバンに納めた。
 私は「藤娘」の絵を買った。平成26年の今年8月、浪花の役者当代坂田藤十郎は、東京国立劇場 で「藤娘」を踊ることになっている。この「藤娘」本名題を「哥へす哥へす余波大津絵」(かへすがへすなごりのおおつえ)という。「藤娘」は長唄がはじめに作られ、「五変化」といわれる歌舞伎舞踊の中で踊られた。日本舞踊としても代表的な踊りとして今に続いている。長唄の中のくどきと唄われる曲のくだりには近江八景が詠みこまれ、踊りの見せ場でもある。
 かようにして大津の縁で大津絵見ることになり「藤娘」を買ってきた。
 このことをちょっと夢のようだと思う。
 私はもの心ついた頃から「藤娘」と縁がある。

 広島、長崎に原子爆弾が落ちて戦争が終わった年をはさんでおよそ10年の間、私は幼少期を瀬戸内の小さな町で過ごし小学校へ上がり、やがてその町をはなれた。大津へ越した妹はまだ影も形もなく生まれていなかった。そこは瀬戸内の小さな町であったが、終戦も間近いころ造船所が作られ、小高い丘に14〜15軒の社宅が作られ、東京から技術者が呼び寄せられ、街の一角には工員社宅と呼ばれて新しく小さな家が立ち並んだ。華やかな進水式があり一艘だけ輸送船が進水した。その船はすぐに敵国によって沈められたと大人から聞いたのを記憶をしている。私はその社宅の庭で広島に落ちた原子爆弾の閃光とキノコ雲を見た。そして次の年小学校へあがった。造船所の技術者のために作られた丘の上のその社宅が父と私たち家族の家であった。社宅の住人はほとんどが東京から来たの人であったので、男たちは船を造り、かたちばかりの防空壕を庭に掘ったが、どこか戦争とは無縁なそこだけが一つの村のような隔離された暮らしがあった。社宅にはお琴やお花を教える夫人などがあって、正月の新年会では子どもたちは着飾って琴の弾き初めをした。戦争が終わり財閥が解体されるにいったって社宅の技術者たちはそれぞれの生きていく道の選択を迫られることになっていたが、戦火に犯されることのなかった瀬戸内の小さな町は豊かさを取り戻し、技術者たちの家族の社宅での暮らしはしばらくは安穏に続いていた。そのころ隣町の郵便局長さんの親戚という日本舞踊の先生が大阪からやってきた。日本舞踊のお稽古がお琴のお稽古に加わった。私はお琴は嫌いであったが踊りは好きであった。その先生は子ども心に見たこともないほどきれいな人で、いつも一人のお付きの人を連れて隣町からやってきて、お琴の先生の座敷で踊りの稽古が始まった。その先生がいつもそのお付きの人につらく当たる様子が私はおとぎ話のようで興味があった。そのお付きの人は風呂敷包みを持って先生の後についてやってくる。男のような体格でいかつい顔のその人はなんだかいつもなよなよしていた。先生は大きな声でその人の名を呼んで何かと用事をいいつけるのだが、そのときの先生の大きな声が今も耳に残っているが、ここまででかかっているその人の名前がどうしても思いだせない。70年ぐらいも前のことになる。町には小さな古い芝居小屋があって映画や、旅の芝居や、楽隊がきたりなんでもそこでやっていた。私たちの踊りの会もそこでひらかれることになった。私は母の作った藤の花を持って、母の着物に貼り付けた藤の花の衣装をひきずって「藤娘」踊った。そして会の最後はいつも先生とお付きの人の「壺坂霊験記」が演じられた。物語はお里と盲目の三味線弾き沢市の信仰と愛情の物語。今でもこの浄瑠璃は歌舞伎、文楽で上演される。今思うと踊りの会でどういういわれのものだったのだろう。杖の両はじをとって二人が花道を行くシーン。その時二人の日頃の関係からは思いも寄らない夫婦愛の芝居の世界が小屋の涙をそそる。何かにぎやかな拍手喝采でその日の踊りの会は終わりになったようであった。二人の関係について大人たちがなにかうわさをしていたのを今ならなつかしく偲ぶことができる。二人はレズビアンで先生は男役、お付きの人は女役であったのだろう。踊りの会の「壺坂霊験記」は何度かでたように思うが、先生とお付きの人はいつか大阪へ帰っていった。寄り添いながら暮らしたであろう、突然あらわれて去っていった二人ももうこの世の人ではない。この次大津へいったら「壺阪寺」を訪ねてみよう。1300年前に由緒をさかのぼる大和の古いお寺だ。
 それからすぐあとの1949年終戦から4年後、私は「藤娘」を踊った芝居小屋の花道に座って、美空ひばりの映画「悲しき口笛」を観た。ひばり12歳私が10歳の時だ。その時の衝撃は今も鮮明である。私はいつかひばりになるとこのときこの花道で誓った。 数年してその町を去ることになり、社宅の人も皆散り散りになっていった。父の新しい仕事が始まり、戦後の動乱期の中私は父を説きふせて日本舞踊を続けた。そして一度だけ大きな劇場で「藤娘」を踊った。けれど私は自分の「藤娘」に絶望していた。そして私は結婚した。私のひばりになる夢は、錯綜し、迷走しながら、夢いまだに浮遊したまま私は今老人である。
 しかし私はこの春に新装なった東京歌舞伎座の「鳳凰祭三月大歌舞伎」の坂東玉三郎、中村七之助の「二人藤娘」を娘や嫁たちと観たいという夢を叶えた。無理もしてやっとのことで手に入れたチケットを手に私はしあわせであった。玉三郎、七之助の「二人藤娘」は夢のように美しい舞台であった。私は耳にも振りにも私の「藤娘」かさねることができた。
 以来私はちかごろ、あれもこれも夢ではなかったかと思う。遠い昔のこと、夢みて叶わないままの日々できごとの数々、めざめて、なんだかわからないがいい夢をみていたような気がするそんな気分…そうでも思わなければあの日あのときたしかに踊った「藤娘」はどれもこれも無かったことになるように思えてくる。


「藤娘」_e0303636_16512096.png

# by manto-usagi | 2014-08-03 00:00
並ぶ_e0303636_116217.png 「荒地」の詩人がまだ健在で、その後を継ぐ現代詩の詩人と呼ばれる人々の前にまだ大きな存在感を示し尊敬のまなざしを受けて、ジャンルの中で活躍し、または慎ましやかに見え隠れしていた頃、人々がこぞって自分を模索し、楽しみとしての時間をまさに謳歌するかにみえる時代が始まっていた。それは今にして考えると不思議なカルチャーセンターのバブル期であり、「荒地」に代わって詩の一時代を盛んにした現代詩のバブル期であったように思う。カルチャーセンターへは、学生や、勤め帰りの若い男女や、一人二人の老人もいたが、やっと何かを学ぶと理由のついた時間を与えられた家庭の主婦という存在が多く集まった。私もそのころそこにいた。それまでは書物でしか触れることのなかった詩というものを、詩人が教室の先生として登場し、その詩人が独特の個性を発散する夜の教室の時間に、皆夢中になり、詩を読み、目の前に詩人の話を聞き、自らの詩を書くことを試みた。私はその頃こんな詩を書いた。

  さんがいノ外で

  おばさんが定着するかに見えた時代があったとすれば
  それは今をおいてはない
  かつては水まわりで
  水を流していた
  みずを向けられ
  おばさんになる
  位置はまだ決まっていないが
  言葉として
  おばさんは自らそう名乗ることにも踏み切っている

  おばさんが出かけたのは
  もう何年前だろう
  「家」は
  見つかっただろうか
  近頃
  はびこったおばさんが道を塞ぐ
  という噂を聞く
  そろそろ
  水に流して
  帰ってくるかもしれない

  ほら
  おばさんが歌っている
  あれは第九交響曲
  もう暮れるようだ
  位置だけでも決まるといいのだけれど

 どこかで若い詩人の目に触れたこの詩は、詩の雑誌で「時代を切り取った」などと評された。そして、結局おばさんの位置など決まるはずもなく、みな「おばあさん」になってしまった。時代は変わった。
 週に一度のカルチャーセンターの夜の教室のあとは、たいがい行きつけのスナックなどで過ごすのだが、先生はいつも畏敬の念をもって遠巻きにするどこか世慣れない生徒に囲まれて静かに座っている。皆は飲むでもなく、食べるでもなく、時々店の店主が並べていくものをつまんだり、ビールを飲みたい二三人が勝手に飲んでいたり、かといって若いとはいえないことを自覚しているめいめいは、議論などはせず、まして羽目をはずすようなことはなく、いつまでもだらだらと時間を過ごし、皆終電がなくなるといって一人二人と帰っていった。そのうちに何人かで同人誌を始めたり、何人かは自分の詩集を出し始めた。その頃は書き慣れないものを世に問う本人も、それを受け取る読み手も、今より少し本気で、詩の世界があるとすればそれをかいま見たいと、憧れの世界にむきあっていたように思う。そしてたぶん今はもうなくなってしまったであろう教室の空間で、皆詩人気取りの時間を楽しんでいたのだろうと思う。
 最終電車近くになって、同じ電車で一時間ほどいっしょに帰ることになるKさんは優しい人で、いつも一駅先に降りるとき私の電車を見送って動き出した電車に軽く頭を下げて送ってくれた。教室のグループから後に詩人として世にでた人はたぶんなかったと思うけれど、そのころ若いKさんは頭角を現し、詩壇にも期待されていたと思う。そのKさんがほどなく癌で亡くなった。まだ若くて優しくて静かで男前のKさんはどんなに悔しかったろうと今も思い出す。
並ぶ_e0303636_119941.png「ちょっと並ぶこともあるけれどおいしい中華屋さんを教えましょうか」とKさんから教えられたA飯店に今も時々通っている。いつも近所の人らしい人が文庫本を読みながらだったり、手ぶらの中年の夫婦連れだったりで何人か並んでいるが、そのくらいならあきらめて、ひきあげたりはしない。できれば今日はここで食事をしたいと思って出かけるから並んで待つ。間口一間の引き戸が入り口。お子様おことわりとある。カウンターが7つばかり、そこを挟んで一間ばかりの厨房。二人がけのテーブル席が3っつ。11時開店午後2じまで。厨房で大鍋を振っているのはカウンターから隠れてしまいそうな小さな老人。入り口側に主にラーメン担当の息子さん。奥にいつも餃子の火加減をみながら時々入ってきた客に水を運ぶ奥さんの老婦人。Kさんから教わって私が通うようになってからもほぼ14、5年この様子は変わらない。少しきしむ引き戸を引いて店に入ると、息子さんが小さな声で「いらしゃい」という。席についてお客は待つ。頃合いを見計らって息子さんが「何にしましょう」とこちらを見る。多いとはいえないメニューから「何番でおねがいします」と注文する。そこへ通りがかりの人も時々入ってくる。一瞬せまい店内に戸惑う風で、でもいきなり「焼きそば」とかいう。老人の店主は鍋を手にぎょろっとにらんで「お待ちください」ときっぱりという。にらむのも声を発するのも老店主だけ。客は「なんだこの店は」とつぶやいたり、「あいそないなあ」などという。この時、店主は臆せず「どうぞお帰りください」という。「なんなんだ」と椅子をけって出ていく客。そんなとき残った客はちょっと秘密結社にいる気分で、食事と共に店主の美味の哲学を味わっている。食べ終わると入り口の息子さんにお金を払って「ごちそうさま」と出ていく。息子さんは小さく「ありがとうございました」という。店では「いらっしゃい」「なににしましょう」「ありがとうございます」ときどき老店主の「お待ちください」だけがこの店で聞かれる声。おいしかったまた来ようと思う。
 冬のある日「本日休業」の札がさがっている。ふと、老店主は元気かしらと気になる。しかたがないので路地を街の方に抜けようとしていると、背をかがめすたすたとやってくるスーツ姿の老人とすれ違った。ぎょろっとした目で笑って「お寒いですな」といった。A飯店の主人だ。私はもしかして常連さんに入っているのかしら。そう思うと路地の向こうがうるんでかすむようだった。振り向くともう角をまがって見えなくなっていた。
 A飯店の店主の老人はますます小さくなって、大鍋を炎の上であやつり大きなお玉で塩などちょっとすくって、小皿で味見をして、皿にこぼれんばかりの舌を焼くような食事を出してくれる。二年ほど前に奥さんの老婦人が見えなくなって、息子さんの奥さんらしい人が餃子のかかりになっている。若くはないが明るい人でなんだか野に置かれた可愛いお地蔵さんのような雰囲気をそのあたりに作っている。けれど店は相変わらず静かである。そして味は変わらない。
 Kさん。ありがとう。この前久しぶりにA飯店へ行ったら、隣りにあったあの大きな材木屋さん、どこかへいってしまって、ビルが建ち始めていました。私がそこを見つめていると並んでいた老人が「古い店でしたけどネどこへ行ったのでしょうか」と話しかけてきました。
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# by manto-usagi | 2014-05-05 12:00