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マントうさぎ

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マントうさぎの随想「枯れ色」

雪折れ_e0303636_14212149.png いつのころからか日本の四季の風情が荒々しいものになっている。
 木々や鳥はなおのこと年々の季節のめぐりをなんとすることもできないだろう。
 この地方ではかつてなかったといわれるほどの大雪が二週つづけて週末を襲った。
 先の週の雪がまだ残っているところへ、夜にはいって降りはじめた二度目の雪は、たちまち腰までの高さに道を覆っていった。前に降った雪の夜は、経験したことのないほどの吹雪で、窓一面を外が見えなくなるほど吹雪いてきた雪が凍り付いて珍しかった。ものすごい風が一晩中吹き荒れていた。翌朝、いつもの習慣で新聞を取るための玄関のドアを開けると、玄関先の藪椿が真ん中のあたりで真っ二つに折れていた。
 昨年の冬は花つきが悪く、五つか六つの蕾が花を咲かせたが、鳥にも不自由な冬だったのか、その花をメジロがついばんでしまって、椿にはたよりない春だった。今年はこぼれるほどの蕾をつけて、立春のころから鮮やかな赤い花を一つ二つ咲かせはじめた。
古い木ではあるが、か細いとはいえない幹はねじ切られて折れていた。折れた頭の部分とても手に負えない程の茂りで、幹の折れ口はうすみどりにみずみずしかった。
雪折れ_e0303636_14245295.png

 雪折れ_e0303636_14273910.png二度目の雪はさらに積もったが水のような雪でやがて雨にかわった。
 この雪にユスラウメが倒れた。かろうじて立っいるといった枯れ枝のようになった古木であったが、毎年花を咲かせ実をつけた。昨年の花は通りがかりの人が足を止めるほど見事で、そのあと木が赤くなるほど実をつけた。そのユスラウメが二度目の雪に根元から折れてしまった。ほんとうに枯れ枝がさくりと折れたという風情だったが、なぜ、どうして、雪の前に支えをしてやらなかったんだろうと、とても悔やまれた。
 藪椿とユスラウメ、二本の庭の木と四十年以上もいっしょであった。
 それぞれの花の季節にはそこに花の咲かないことがこれからはどんなに寂しいだろう。
雪折れ_e0303636_14303361.png

# by manto-usagi | 2014-02-23 15:00
 「むやみ」_e0303636_18343639.jpg 庭で小さな焚き火をしていると虫が飛び込んできた。棒で払うとかたわらの草に、鮮やかな緑の透きとおった羽を四枚ひろげた二センチほどの虫が落ちた。冬にも飛ぶのか草カゲロウと思ったが虫の名は知らない。儚げな羽をいつまでも振るわせている。どこか足の先を火に炙られたのだろうか、飛べるのだろうか。
 およそ半世紀ほどが経ったが、山を一つ切り崩してできた丘の住宅地で暮らしている。山の一部が屏風のように薄く残されていて、かつてはその山が、切り立った崖のように見えていた住宅地の奥まったところに私の家はある。今その斜面にも木が茂り、遅い朝日が昇る山際には、山桜がいつの間にか大木になって桜のころは道に花が舞い落ちてくる。小鳥たちのやってこない日はない。
 晴れた冬空に焚き火の煙が昇っていくと、葉の散り落ちた雑木の茂みに、メジロ、エナガ、シジュウカラらが群れて騒ぎだす。コゲラが木を打ち続ける。カラスもやってきて、カォ、カォ、と首を振っている。鳥たちは焚き火のあいだじゅうそこを離れない。私はそんなふうに鳥たちと交信を交わす。しかし鳥たちがどうして今そこにいるのかをたずねてみることはできない。
 焚き火の傍らに朽ちかけた小さな濡れ縁があって、そこに胴回り七十センチほどの陶器のカエルを座らせてある。白目のところが丸く飛び出て、三センチばかりの黒目を付けていて、顔いっぱいの口を笑う如くに結んで姿かたち全体がとても可愛い。ところがカエルには、気がつきにくいが背中に本物を模した大小五匹のカエルがのっかていて、ちょっとぎょっとする。
 このカエルを「無病みガエル」という。
 数年前の夏、私は京都伏見の竹田という所を用があって通っていた。
 その時偶然そこで開かれていた、大がかりな骨董市に遭遇して立ち寄った。さまざまな古物を扱う店の隅にこのカエルはあった。一目で気に入った私は少し高価であったし、重いものであったが、夏のさなかに自分の手で家へ持って帰ってきた。老舗と思われる骨董店の老人が説明した言葉も信用した。「ここに信楽のカエルを置くのは偶然なんですが、これは高齢で亡くなった知り合いの名工の手になる無病みガエルという縁起物です。もうこんな仕事のできる人はいないと思います。目もとがちがいます」と言った。
 以来私はその縁あって家にきた信楽のカエルを「むやみちゃん」と呼んで日々心を通わせている。
 総じて私はデフォルメされた鳥や獣やその他小動物の人形が好きだ。ぬいぐるみには全く興味がないという友人がいる。市松人形や、フランス人形を、コレクションしている人がいる。人を生き写しに拵えた現代作家の人形展へ出かけていくものもいる。その人たちの気持ちの邪魔をするつもりはないが、その人たちと遊ぶなら、私は部屋のぬいぐるみたちと過ごす方がどれほどしあわせかと密かに思っている。
 人を模した人形にも、人形浄瑠璃の人形の首やお能の能面があるが、これらは人の様を、人が体を使って表現する道具であるので、生きていなくても、生き死には人の手にかかっているというのが魅力である。ただじっとしているヒトガタの人形は、その嘘にどこかおぞましさがある。そこのとのところを愛でるのだろうか。
 私はじっと動かずにそこにいるだけの、しかしその縁は自分でつないだ、例えば旅先でふと出会うとか、ある日私の指先から生まれでる、そういうぬいぐるみや、おきものたちと心を通わせながら暮らしている。
 さて「むやみ」を連れて戻ってからその置き場所をいろいろに迷った。どうもそこでもここでもない。そうこうしているうちに冬になり、珍しく雪が積もった。雪の中に出たいふうであったので置いてみた。その「むやみ」は外の景色の中で格別であった。それから「むやみ」は外の濡れ縁に居ることになった。
 それからというものその名工の手になる「むやみ」の目がものをいいはじめた。
 黒目に差す光次第「むやみ」は空をながめたり、山をみたり、庭をみたり、飛ぶ鳥を見たりして過ごす。私が近づくと私のその日の心を写して私の方を見る。
 背中に載った五匹のカエルがちらっと見えると、私は家族の息災を祈って手を合わせたらどうかとも思うほどありがたい。しかしこのかわいい「むやみ」にそこまでは背負わせられないという気がしてしまう。
 日が暮れはじめて私は焚き火の火を確かめにでる。今夜は月も昇り、ふくろうも鳴きはじめた。草のまわりをよく探したけれど、草カゲロウらしき小さな虫はどこにもいなかった。
「むやみ」_e0303636_18442298.jpg

# by manto-usagi | 2014-01-20 00:00
焚火_e0303636_16175939.jpg 二、三日冴え渡った空に冬の月が見えたが、今日は雨模様で暗い。遠くの方から拍子木を模したらしい木の音が、かまぼこ板でも叩いているようなぱちぱちという音を叩きながら近づいて来た。外を覗いてみると四、五人で、それぞれ胸や腰のあたりに光るライトを点けた黒い影が、また拍子木を叩きながらさっさと通り過ぎていった。
 焚火ほど楽しみなものはない。人は火を焚くことを見つけ、生きるすべを知り、神に祷り火を焚いて、いただいたものを自然に返す。庭で一人小さな焚火をするとそのことが思われて、私は秋の儀式のようだと思う。俳句の季語は待っていたように冬には焚火を焚く。秋には萩を括り、枯れ菊を焚く。私も萩を括り、枯れ菊を小さく折って束ね、焚火の日を待つ。
 家のそばを通る道は、車通りもあるコンクリであるが、山が迫った場所にあるので、木々の紅葉が始まるとその落葉の降り方はすごい。来る日も来る日もしばらく落葉の道になる。コンクリの道路でも一面落葉に覆われる風情は格別だと、私はその季節を待っている。しかし道に降り積もった落葉を味わうことはできない。早朝からその家の人が出て、自分の家の前の落葉をきれいに掃き清め袋につめてしまう。ゴミ収集の日には集積場に落葉の袋が山積みにされる。四角く落葉が切り残された落葉の道は風情に欠ける。私はいつも出遅れてから自分の家の前の落葉を掻き集める。通る人が「大変ですね」と言う。「これがお金だったらいいんですけど」と私は毎年このばかな言葉を繰りかえす。
 風もなく晴れ渡った日を待って、小さな庭の隅を小さく広げて私は焚き火をする。落葉がぼっと燃え上がる。萩をポキポキ折りながらたしていく。菊を入れて懐かしい香りに今年も出会う。煙が立ち昇りゆっくり冬の青空を白く覆っていく。
 男の人が二人足早に駈けて来た。「なんだ、たきびをやってるよ」と言った。「火事だと怖いので二人で見に来たんですよ」と垣根越しに覗いている。黙っていると「オゾン層が…」「消防署が…」とか話している。「(それがどうした)」私は焚き火を棒でかき混ぜた。二人はぶつぶつ言いながらぶらぶら行ってしまった。「ばぁかぁ」私は落葉をひとつかみ大きくくべながら小さく言った。落葉はうれしそうにぱっと燃え上がった。
 これから日本の国はどうなるのだろう。私は捕まるのかもしれない。でも私は死ぬまで焚火をやめないつもり。焚火を終えると次第に深い冬がやってくる。

焚火_e0303636_16262747.jpg

# by manto-usagi | 2013-12-22 00:00